『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

お知らせ 2023

ご無沙汰しました。
私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。
タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。
リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。

お知らせ

 しばらくご無沙汰いたしました。
 年が明けて、次の本をこれからまた、新しく読み始めていきたいと思います。
 『徒然草』、『源氏物語』、『正法眼蔵』に続く第四弾は『太平記』にしました。
 明日2021年1月4日から公開予定にしております。
 小林秀雄の本で「平家なり太平記には月も見ず」という句を知ってから、ちょっと馬鹿にしていたのですが、この頃あの時代の事が気になり始めて、思い立ちました。
 およそ二年半の作業になるかと思っています。

 リンクになっていますので、よろしければ、お付き合いください。では、…。

一百八法明門

いよいよこのブログで読む最後の巻です。
 ただ、この巻は、サイト「つらつら日暮らしwiki」によれば、「正法眼蔵』の巻名の一。12巻本では11巻、他の編集形式には見えない。説示場所や時期は不明。なお、12巻本にしか収録されなかった巻であるため、12巻本が発見されていなかった時代の編集である84巻本や95巻本には、同巻は見えない」というものだそうです。
 内容は「禅師は『仏本行集経』から一百八法明門を引用して、その真意を明らかにしようとされたが、その一々の内容についての拈提はない。ただ、巻末には釈尊が兜率天にあった頃の名前である護明菩薩についての説明がある」というものです(同サイト)。
 というわけで、座右の『提唱』にも『全訳注』にも見えず、私としては、徒手空拳、手の触れようがありません。
 ただ、そういう珍しい巻のようですので、底本としています『道元禅師 正法眼蔵 現代語訳の試み』からそのまま引用して、ここに掲載だけはさせていただきます。
 なお、そういう事情ですので、原本は九章に分けてあり、少々長いのですが、一括して一回分とし、終わりに若干の私見をつけておきます。
 

(ソ)の時に護明(ゴミョウ)菩薩、生家(ショウケ)を観じ已(オワ)りぬ。
 時に兜率陀(トソツダ)に一天宮(イチテングウ)有り、名づけて高幢(コウドウ)と曰(イ)ふ。
 縦広(ジュウコウ)正に等しく六十由旬(ユジュン)なり。
 菩薩時々に彼(カ)の宮中(グウチュウ)に上り、兜率天の為に法要を説けり。

 仏となる時が来た兜率天の護明菩薩(釈尊の前身)は、次に出生する人間界の中の家を観察した。
 その時、兜率天には一つの天宮があり、名づけて高幢と呼ばれていた。
 それは縦横の大きさが等しく六十由旬であった。
 この菩薩は、いつもその天宮に上って兜率の天人の為に教えを説いていた。

是の時に菩薩、彼の宮に上りて安坐し訖已(オワ)り、兜率の諸天子に告げて言く、
「汝等(ナンダチ)諸天、応に来(キタ)り聚集(アツマ)るべし。
 我が身 久しからずして人間(ニンゲン)に下るべし。
 我今一の法明門(ホウミョウモン)を説かんと欲(オモ)ふ。
 名づけて諸の法相に入る方便門といふ。
 教を留めて汝を化(ケ)すること最後なり。
 汝等 我を憶念するが故に、汝等若し此の法門を聞かば、応に歓喜を生ずべし。」

 この時に菩薩は、その天宮に上って安坐し、兜率の天人たちに告げた。
「諸天子たちよ、集まって来なさい。
 私は近いうちに人間界に下るであろう。
 そこで私は今、一つの法明門(聖者の道に入る門)を説こうと思う。
 名づけて、すべての法相(ものごとの真相)を悟る方便門(便宜の教え)という。
 この教えを残して、お前たちを教化する最後とする。
 お前たちは、私のことを心に深く思って忘れないので、お前たちがもしこの教えを聞いたならば、きっと歓喜することであろう。」

 時に兜率陀の諸天大衆(ダイシュ)、菩薩 此(カク)の如く語るを聞き已(オワ)りて、天の玉女(ギョクニョ)、一切の眷属に及ぶまで、皆来り聚集(アツマ)りて彼の宮に上りぬ。

 その時に兜率の諸天たちは、菩薩がこのように語るのを聞いて、天女から一切の眷属に至るまで、皆集まって来てその天宮に上った。

護明菩薩、彼の天衆(テンシュ)の聚会(アツマ)り畢已(オワ)れるを見て、為に法を説かんと欲(オモ)ひて、即時(スナワチ)更に一天宮を化作(ケサ)して、彼の高幢を本天宮の上に在(オ)く。

護明菩薩は、彼ら天人衆が集まったのを見て、そこで教えを説こうと思い、すぐにまた神通力で一つの天宮をつくって、その天宮をもとの天宮の上に置いた。

高大広闊(コウカツ)にして四天下(シテンゲ)を覆ひ、喜ぶべき微妙(ミミョウ)、端正(タンジョウ)(ナラ)び少(ナ)く、威徳巍巍(ギギ)たり、衆宝(シュホウ)もて荘餝(ショウジキ)せり。

それは高大で広々としていて四天下(東西南北の国々)を覆うほどであり、喜ばしい微妙端正な姿は並ぶものなく厳かで偉大であり、多くの宝石で美しく飾られていた。

一切欲界の天宮殿の中に、匹喩(ヒツユ)すべき者無し。
 色界の諸天、彼の化殿(ケデン)を見て、自(オノ)が宮殿(グウデン)に於て、是(カ)くの如くの心を生ぜり、塚墓(チョウボ)の相の如しと。 

すべての欲界(欲望の世界)の天宮殿の中で、これに匹敵するものは無かった。
 また色界(物質の世界)の諸天たちは、その宮殿を見て、自分の宮殿が墓場のように思われたのである。

 時に護明菩薩、已(スデ)に過去に於て宝行(ホウギョウ)を行じ、諸の善根(ゼンゴン)を種(ウ)え、福聚(フクジュ)を成就す。功徳を具足して、成ぜる所の荘厳(ショウゴン)の師子の高座に昇上(ノボ)りて坐す。

 その時 護明菩薩は、もはや過去に尊い行を行じ終えて、多くの善根を植えて大きな幸福を成就していた。そして、自ら功徳を具えて実現した美しい荘厳の獅子の高座に上って座った。

 護明菩薩は、彼(カ)の師子の高座の上に在(ア)りて、無量の諸宝もて荘厳間錯(カンシャク)し、無量無辺なり。
 種々の天衣を而も彼の座に敷き、種々の妙香を以て彼の座を薫じ、
 無量無辺の宝炉に香を焼き、種々微妙
(ミミョウ)の香華(コウゲ)を出して、其(ソ)の地上に散ず。

 護明菩薩は、その獅子の高座の上にあって、計り知れないほどの多くの宝石の荘厳に入り混じり、限りなく美しかった。
 菩薩は、様々な天衣をその座に敷いて、様々な妙香でその座を薫じ、
 限りない数の宝炉に香を焼き、様々な香しい花を出して、その地上に散らした。

 高座の周帀(マワリ)に諸の珍宝あって、百千万億の荘厳は光を放ち、彼の宮(グウ)を顕耀(カガヤ)かす。
 彼の宮の上下は宝網羅
(ホウモウラ)覆ひ、彼の羅網(ラモウ)に多く金鈴(コンレイ)を懸けたり。
彼の諸の金鈴は、声を出すこと微妙なり。

高座の周りには、多くの珍しい宝石があり、百千万億の荘厳は光を放って、その天宮は輝いていた。
その宮の上下は珠玉の網飾りに覆われていて、その網飾りには多くの金の鈴が懸かり、それらの金の鈴は美しい音を出していた。

 彼の大宝宮は、復た無量種々の光明を出す。
 彼の宝宮殿の千万の幡蓋
(バンガイ)は、種々の妙色(ミョウシキ)を映して上を覆ふ。
 彼の大宮殿は、諸の流蘇
(リュウソ)を垂れたり。

 その大宝宮殿は、また無量の様々な光明を放っていた。
 その宝宮殿に懸かる千万の幡蓋(旗を垂らした天蓋)は、様々な美しい色を映してその上を覆っていた。
 その大宮殿は、多くの流蘇(五色の房飾り)を垂らしていた。

 無量無辺百千万億の諸天玉女は、各(オノオノ)種々の七宝を持して、音声(オンジョウ)もて楽(ガク)を作(ナ)して讃歎し、
 菩薩の往昔
(オウジャク)の無量無辺の功徳を説けり。

 数限りない百千万億の諸天や天女は、各々様々な七宝を持って、音楽で菩薩を褒め称え、菩薩が昔修めた尊い行の無量の功徳を説いた。

 護世の四王 百千万億は、左右に在りて彼の宮を守護し、
 千万の帝釈は彼の宮を礼拝
(ラライハイ)し、千万の梵天は彼の宮を恭敬(クギョウ)す。

 世を護る百千万億の四天王は、左右にあってその宮を守護し、
 千万の帝釈天はその宮を礼拝し、千万の梵天はその宮を敬い尊んだ。

 又諸の菩薩の百千万億 那由他衆(ナユタシュ)は、彼の宮を護持し、
 十方の諸仏は、万億 那由他数有りて、彼の宮を護念す。

 又、百千万億の菩薩はその宮を護持し、十方の万億の諸仏はその宮を大切に護った。

 百千万億 那由他劫(ナユタゴウ)に修行する所の行は、諸波羅蜜(ショハラミツ)の福報を成就し、因縁を具足して日夜に増長す。

 菩薩が無量百千万億の時に修めた尊い行は、様々な菩薩行による幸福を成就して、仏となる因縁を日夜に具え増長したのである。

 無量の功徳、皆悉く荘厳すること、是くの如く是くの如く、説き難く説き難し。

 この菩薩の無量の功徳が、すべてを荘厳している様は、このように甚だ説き難いのである。

 彼の大微妙(ダイミミョウ)なる師子の高座に、菩薩は上に坐して、一切の諸天衆に告げて言(ノタマ)はく、
「汝等諸天
(ナンダチショテン)よ、今 此の一百八法明門は、一生(イッショウ)補処の菩薩大士の、兜率宮(トソツグウ)に在(ア)りて、下りて人間(ニンゲン)に託生(タクショウ)せんと欲する者の、天衆(テンシュ)の前に於て、要(カナ)らず須らく、此の一百八法明門を宣暢(センチョウ)して説くべし。諸天に留与(リュウヨ)して、以て憶念を作(ナ)さしめ、然して後に下生(ゲショウ)すべし。

 その甚だ美しき獅子の高座の上に護明菩薩は座り、すべての諸天衆に告げた。
「お前たち諸天よ、この一百八法明門(百八の聖者の道に入る門)は、一生補処(仏の候補)の菩薩で、兜率天から下って人間の胎に生まれようとする者が、天人衆の前で必ず説く教えなのである。この教えを諸天に残し、心に深く留めて忘れないようにして、その後に下界に生まれるのである。

 汝等諸天よ、今至心(シシン)に諦聴(タイチョウ)し諦受(タイジュ)すべし、我今之を説かん。一百八法明門とは何ぞや。

 お前たち諸天よ、今 心してよく聞き、よく受け取りなさい。私は今この教えを説こう。一百八法明門とは何かと言えば、

正信(ショウシン)は是れ法明門、堅牢(ケンロウ)の心を破らざるが故に。

1 正法を信ずることは法明門(聖者の道に入る門)である。それは堅固な信心を破らないからである。 

浄心は是れ法明門、濁穢(ジョクエ)無きが故に。

2 清浄な心は法明門である。それは煩悩の穢れが無いからである。 

歓喜(カンギ)は是れ法明門、安穏の心なるが故に。

3)仏法を歓喜することは法明門である。それは安穏の心を得るからである。 

愛楽(アイギョウ)は是れ法明門、心を清浄(ショウジョウ)ならしむるが故に。

4)善法を愛し願うことは法明門である。それは心を清浄にするからである。 

身行正行(シンギョウショウギョウ)は是れ法明門、三業(サンゴウ)浄きが故に。

5)身の行いが正しいことは法明門である。それは三業(身と口と心の行い)が清浄だからである。 

口行浄行(クギョウジョウギョウ)は是れ法明門、四悪を断ずるが故に。

6)口の行いが清浄であることは法明門である。それは四悪(殺生、偸盗、邪淫、妄語)の罪を断つからである。 

意行(イギョウ)浄行は是れ法明門、三毒を断ずるが故に。

7)心の行いが清浄であることは法明門である。それは三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を断つからである。 

念仏は是れ法明門、仏を観ずること清浄なるが故に。

8)仏を念じることは法明門である。それは仏を見ることが清浄だからである。 

念法(ネンポウ)は是れ法明門、法を観ずること清浄なるが故に。

9)法を念じることは法明門である。それは法を見ることが清浄だからである。 

念僧は是れ法明門、道を得ること堅牢なるが故に。

10)僧団を念じることは法明門である。それは仏道を得ることが堅固だからである。

念施(ネンセ)は是れ法明門、果報を望まざるが故に。

11)他者に施しを与える功徳を念じることは法明門(聖者の道に入る門)である。それは施しの果報を望まないからである。 

念戒は是れ法明門、一切の願を具足するが故に。

12)戒の功徳を念じることは法明門である。それはすべての願いを円満するからである。 

念天は是れ法明門、広大心を発するが故に。

13)天界を念じることは法明門である。それは広大な心を起こすからである。 

慈は是れ法明門、一切の生処(ショウショ)に善根摂勝(ゼンゴンショウショウ)するが故に。

14)慈心(衆生に楽を与えること)は法明門である。それはすべての衆生の生まれる所で、善根が勝利するからである。 

悲は是れ法明門、衆生を殺害(セツガイ)せざるが故に。

15)悲心(衆生の苦を抜くこと)は法明門である。それは衆生を殺害しないからである。 

喜は是れ法明門、一切不喜の事を捨するが故に。

16)喜心(他の喜びを見て喜ぶこと)は法明門である。それはすべての喜ばざる事を捨てるからである。 

捨は是れ法明門、五慾を厭離(エンリ)するが故に。

17)捨心(憎愛の無いこと)は法明門である。それは五欲(眼耳鼻舌身の欲)を厭い離れるからである。 

無常観は是れ法明門、三界の慾を観ずるが故に。

18)世の無常を観じることは法明門である。それは三界(欲望 物質 精神の三世界。世間のこと。)の欲を離れるからである。 

苦観は是れ法明門、一切の願を断ずるが故に。

19)世の苦を観じることは法明門である。それはすべての願いを断つからである。 

無我観は是れ法明門、我に染著(センジャク)せざるが故に。

20)無我を観じることは法明門である。それは我執に染まらないからである。 

寂定観(ジャクジョウカン)は是れ法明門、心意を擾乱(ジョウラン)せざるが故に。

21)すべては静寂であると観じることは法明門である。それは心を乱すことがないからである。 

慚愧は是れ法明門、内心寂定なるが故に。

22)慚愧(罪過を恥じること)は法明門である。それは内心が静寂だからである。 

羞恥は是れ法明門、外悪(ゲアク)を滅するが故に。

23)羞恥(自らを恥じること)は法明門である。それは外の悪事を滅ぼすからである。 

実は是れ法明門、天人を誑(タブラ)かさざるが故に。

24)真実なることは法明門である。それは天や人を誑かさないからである。 

真は是れ法明門、自身を誑かさざるが故に。

25)真理は法明門である。それは自分を誑かさないからである。 

法行(ホウギョウ)は是れ法明門、法行に随順するが故に。

26)仏法に随い行くことは法明門である。それは仏法の行いに随順するからである。 

三帰は是れ法明門、三悪道を浄からしむるが故に。

27)三帰(仏 仏法 僧団の三に帰依すること)は法明門である。それは三悪道(地獄 餓鬼 畜生の三道)を清浄にするからである。 

智恩は是れ法明門、善根を捨てざるが故に。

28)恩を知ることは法明門である。それは善根を捨てないからである。 

報恩は是れ法明門、他を欺負(ギフ)せざるが故に。

29)恩に報いることは法明門である。それは他を欺き背くことがないからである。 

不自欺(フジキ)は是れ法明門、自ら誉めざるが故に。

30)自らを欺かないことは法明門である。それは自らを誉めることがないからである。

衆生の為には是れ法明門、他を毀訾(キシ)せざるが故に。

31)衆生のためにの願行は法明門(聖者の道に入る門)である。それは他を謗らないからである。 

法の為には是れ法明門、如法(ニョホウ)にして行ずるが故に。

32)法のためにの願行は法明門である。それは法の通りに行じるからである。 

時を知るは是れ法明門、言説(ゴンセツ)を軽んぜざるが故に。

33)時節を知ることは法明門である。それは言説を軽んじないからである。 

我慢を摂(オサ)めるは是れ法明門、智慧を満足するが故に。

34)我慢を治めることは法明門である。それは智慧を満足するからである。 

悪心を生ぜずは是れ法明門、自ら護り他を護るが故に。

35)悪心を起こさないことは法明門である。それは自らを護り他を護るからである。 

障礙(ショウゲ)無きは是れ法明門、心に疑惑無きが故に。

36)煩悩の障りが無いことは法明門である。それは心に疑惑が無いからである。 

信解(シンゲ)は是れ法明門、第一義を決了(ケツリョウ)するが故に。

37)仏法を信じ理解することは法明門である。それによって法の究極の道理を悟るからである。 

不浄観は是れ法明門、慾染(ヨクセン)の心を捨するが故に。

38)身の不浄を観じることは法明門である。それによって欲心を捨てることが出来るからである。 

不諍闘(フソウトウ)は是れ法明門、瞋訟(シンショウ)を断ずるが故に。

39)争い闘わないことは法明門である。それによって怒り争うことが断たれるからである。 

不癡(フチ)は是れ法明門、殺生を断ずるが故に。

40)道理を知り愚かでないことは法明門である。それは殺生を断つからである。 

楽法義(ギョウホウギ)は是れ法明門、法義を求むるが故に。

41)法の道理を願うことは法明門である。それは法の道理を求めることだからである。 

愛法明(アイホウミョウ)は是れ法明門、法明を得るが故に。

42)法の智慧を求めることは法明門である。それによって法の智慧を得るからである。 

求多聞(グタモン)は是れ法明門、法相を正覚(ショウガク)するが故に。

43)多くの教えを求めることは法明門である。それによって物事の真相を正しく悟るからである。 

正方便(ショウホウベン)は是れ法明門、正行(ショウギョウ)を具するが故に。

44)衆生を導く正しい方便は法明門である。それによって衆生は正しい行いを具えるからである。 

名色(ミョウシキ)を知るは是れ法明門、諸の障礙(ショウゲ)を除くが故に。

45)我が身は色受想行識の五蘊(地水火風の四大元素より成る肉体とその四つの精神作用)の和合であると知ることは法明門である。それはすべての煩悩の障害を除くからである。 

除因見は是れ法明門、解脱を得るが故に。

46)煩悩の原因を除く智慧は法明門である。それによって解脱を得るからである。 

怨親(オンシン)の心無きは是れ法明門、怨親の中に於て平等を生ずるが故に。

47)怨みも親しみも無い心は法明門である。それによって怨みや親しみの中に平等が生まれるからである。 

陰方便(オンホウベン)は是れ法明門、諸の苦を知るが故に。

48)色受想行識の五蘊(地水火風の四大元素より成る肉体とその四つの精神作用)の方便説を明らかにすることは法明門である。それによってすべての苦を知ることが出来るからである。 

諸大平等は是れ法明門、一切和合の法を断ずるが故に。

49)万物は地水火風の四大元素の和合であり、普く平等であると知ることは法明門である。それによってすべての和合の法を断つことが出来るからである。 

諸入(ショニュウ)は是れ法明門、正道(ショウドウ)を修するが故に。

50)眼耳鼻舌身意の六根から入ることは法明門である。それによって正道を修することが出来るからである。

無生忍(ムショウニン)是れ法明門、滅諦(メッタイ)を証するが故に。

51)無生忍(すべてのものは生じること無く滅することも無いと観じて、それに住すること)は法明門(聖者の道に入る門)である。それは滅諦(煩悩を滅ぼした涅槃の真理)を証明するからである。 

身念処(シンネンジョ)是れ法明門、諸法寂静(ジャクジョウ)なるが故に。

52)身念処(四念処の一。身体は不浄であると観じること)は法明門である。それはあらゆるものが静寂だからである。

(四念処とは、心を一点に集中することで妄念を防ぎ、真理を悟る四種の方法。) 

受念処(ジュネンジョ)是れ法明門、一切の諸受を断ずるが故に。

53)受念処(四念処の二。好悪等の感受作用はすべて苦であると観じること)は法明門である。それはすべての感受作用を断つからである。 

心念処是れ法明門、心を観ること幻化(ゲンケ)の如きが故に。

54)心念処(四念処の三。心は消滅して無常であると観じること)は法明門である。それは心を幻のように見るからである。 

法念処是れ法明門、智慧無翳(ムエイ)なるが故に。

55)法念処(四念処の四。すべてのものは無我であると観じること)は法明門である。それは智慧に影が無いからである。 

四正懃(シショウゴン)是れ法明門、一切の悪を断じて諸善を成ずるが故に。

56)四正懃(心を調えて善を増し悪を退ける四種の修養法)は法明門である。それはすべての悪を断って多くの善を生むからである。

(四正懃とは、
一、まだ生じていない悪は、それを生じさせないように精進する。
二、すでに生じた悪は、それを断とうと精進する。
三、まだ生じていない善は、それを起こそうと精進する。
四、すでに生じた善は、それを増長させようと精進する。)
 

四如意足(シニョイソク)是れ法明門、身心(シンジン)軽きが故に。

57)四如意足(意のままの禅定を得る四種の方法)は法明門である。それは身も心も軽いからである。

(四如意足とは、
一、欲如意足。意のままの禅定を願い求めること。
二、精進如意足。精進して意のままの禅定を得ること。
三、心如意足。心を治めて意のままの禅定を得ること。
四、思惟如意足。正しい道理を思惟して意のままの禅定を得ること。)
 

信根(シンコン)是れ法明門、他語に随はざるが故に。

58)信根(五根の一。仏道を深く信じること。)は法明門である。それによって他の言葉に従わないからである。

(五根とは、清浄にして煩悩の無い聖者の道へ向かわせる五種の能力。) 

精進根(ショウジンコン)是れ法明門、善く諸の智を得るが故に。

59)精進根(五根の二。仏道に精進勉励すること。)は法明門である。それによって多くの智慧を得るからである。

念根是れ法明門、善く諸の業(ゴウ)を作すが故に。

60)念根(五根の三。教えを念じて忘れないこと。)は法明門である。それは多くの行いを良くなすからである。 

定根(ジョウコン)是れ法明門、心清浄(シン ショウジョウ)なるが故に。

61)定根(五根の四。禅定によって身心が動揺しないようにすること。)は法明門である。それは心が清浄だからである。 

慧根(エコン)是れ法明門、現に諸法を見るが故に。

62)慧根(五根の五。正しい智慧。)は法明門である。それはありのままにすべてのものを見るからである。 

信力(シンリキ)是れ法明門、諸の摩力(マリキ)に過ぐるが故に。

63)信力(五力の一。仏道を信じる力)は法明門である。それはすべての魔の力を超えているからである。

(五力とは、煩悩の解脱へ導く五つの力。) 

精進力(ショウジンリキ)是れ法明門、不退転なるが故に。

64)精進力(五力の二。仏道に精進勉励する力)は法明門である。それは退くことが無いからである。 

念力是れ法明門、他と共ならざるが故に。

65)念力(五力の三。教えを念じて忘れない力)は法明門である。仏道は他と同じではないからである。 

定力(ジョウリキ)是れ法明門、一切の念を断ずるが故に。

66)定力(五力の四。心を調える禅定の力)は法明門である。それはすべての念を断つからである。 

慧力(エリキ)是れ法明門、二辺を離るるが故に。

67)慧力(五力の五。正しい智慧の力)は法明門である。それは有と無、得と失などの対立した二つの見解を離れるからである。

念覚分是れ法明門、諸の法智(ホウチ)の如くなるが故に。

68)念覚分(七覚分の一。正しい思念に住すること)は法明門(聖者の道に入る門)である。それはすべての物事の真理を知る智慧と同じだからである。

(七覚分とは、悟りの智慧に達する七つの在り方。) 

法覚分是れ法明門、一切諸法を照明(ショウミョウ)するが故に。

69)法覚分(七覚分の二。真実の仏法を選び取ること)は法明門である。それはすべての物事の真理を明らかにすることだからである。 

精進覚分是れ法明門、善く知覚するが故に。

70)精進覚分(七覚分の三。仏道に専心に精進すること)は法明門である。それによって仏法を良く悟るからである。 

喜覚分是れ法明門、諸の定(ジョウ)を得るが故に。

71)喜覚分(七覚分の四。仏法の喜びに住すること)は法明門である。それによってすべての禅定(坐禅を修し、心を一つにして散乱させないこと)を得るからである。 

除覚分是れ法明門、所作已に辨ずるが故に。

72)除覚分(七覚分の五。悪を除き善を増長すること)は法明門である。それは身体と言葉と心の行いをわきまえているからである。 

定覚分(ジョウカクブン)是れ法明門、一切法平等なるを知るが故に。

73)定覚分(七覚分の六。禅定に入って心を散乱させないこと)は法明門である。それによってすべての物事は平等であることを知るからである。 

捨覚分是れ法明門、一切の生(ショウ)を厭離(エンリ)するが故に。

74)捨覚分(七覚分の七。外境に関わる心を捨てて平安に帰ること)は法明門である。それによってすべての生計を厭い離れるからである。 

正見(ショウケン)是れ法明門、漏尽聖道(ロジンショウドウ)を得るが故に。

75)正見(八正道の一。仏法の道理を正しく知ること)は法明門である。それは煩悩を尽した聖者の道を得るからである。 

正分別(ショウブンベツ)是れ法明門、一切の分別無分別を断ずるが故に。

76)正分別(八正道の二。是非善悪を正しく分別すること)は法明門である。それはすべての誤った分別と無分別とを断つからである。 

正語(ショウゴ)是れ法明門、一切の名字(ミョウジ)音声(オンジョウ)語言(ゴゴン)を響きの如く知るが故に。

77)正語(八正道の三。正しい善い言葉を語ること)は法明門である。それはすべての人々の名前、音声、言葉を響きのように知るからである。 

正業(ショウゴウ)是れ法明門、業(ゴウ)無く報無きが故に。

78)正業(八正道の四。法に従った正しい行い)は法明門である。それは悪行が無く、悪の報いが無いからである。 

正命(ショウミョウ)是れ法明門、一切の悪道を除滅するが故に。

79)正命(八正道の五。法に従った正しい生活)は法明門である。それはすべての悪道を滅ぼすからである。 

正行(ショウギョウ)是れ法明門、彼岸に至るが故に、

80)正行(八正道の六。正しい努力精進)は法明門である。それは彼岸(煩悩を滅ぼした涅槃の悟り)に至るからである。 

正念(ショウネン)是れ法明門、一切の法を思念せざるが故に。

81)正念(八正道の七。正しい思念)は法明門である。それはすべての悪法を思念しないからである。 

正定(ショウジョウ)是れ法明門、無散乱三昧を得るが故に。

82)正定(八正道の八。正しい禅定)は法明門である。それは散乱の無い統一した心を得るからである。 

菩提心是れ法明門、三宝を断ぜざるが故に。

83)菩提心(仏道を求める心)は法明門である。それは三宝(仏と法と僧団)を断絶させないからである。 

依倚(エイ)是れ法明門、小乗を楽(ネガ)はざるが故に。

84)依倚(仏道にまかせ頼ること)は法明門である。それは小乗(狭小な教え)を願わないからである。 

正信(ショウシン)是れ法明門、最勝の仏法を得るが故に。

85)正信(仏道を正しく信ずること)は法明門である。それは最も勝れた仏法を得るからである。 

増進是れ法明門、一切諸の善根の法を成就するが故に。

86)増進(一層修行を進めること)は法明門である。それはすべての善法を成就するからである。

檀度是れ法明門、念念に相好(ソソウゴウ)を成就し、仏土(ブッド)を荘厳(ショウゴン)し、慳貪(ケンドン)の諸衆生を教化(キョウケ)するが故に。

87)檀度(六度の一。衆生に施すこと)は法明門(聖者の道に入る門)である。それは一念一念ごとに良い相が身に具わって、仏の国を美しく飾り、貪り、物惜しみするすべての衆生を教化するからである。

(六度とは六波羅蜜ともいい、菩薩が修める六種の行で、布施、持戒、忍辱、精進、静慮、智慧のこと。) 

戒度是れ法明門、悪道の諸難を遠離(オンリ)して、破戒の諸衆生を教化するが故に。

88)戒度(六度の二。仏の戒を保つこと)は法明門である。それは悪道(地獄、餓鬼、畜生など)の苦難を離れて破戒の衆生を教化するからである。 

忍度是れ法明門、一切の瞋恚(シンニ)、我慢、諂曲(テンゴク)、調戯(チョウゲ)を捨てて、是くの如きの諸悪の衆生を教化するが故に。

89)忍度(六度の三。耐え忍ぶこと)は法明門である。それはすべての怒りや我慢、へつらい、からかい等の心を捨てて、このような悪行の衆生を教化するからである。 

精進度是れ法明門、悉く一切の諸善法を得て、懈怠(ケダイ)の諸衆生を教化するが故に。

90)精進度(六度の四。精進努力すること)は法明門である。それはすべての善法を得させ、怠惰な衆生を教化するからである。 

禅度是れ法明門、一切の禅定、及び諸の神通(ジンヅウ)を成就して、散乱の諸衆生を教化するが故に。

91)禅度(六度の五。禅定。心を統一して静かに思慮すること)は法明門である。それはすべての禅定、神通力(仏菩薩の無礙自在な働き)を成就して、心の散乱した衆生を教化するからである。 

智度是れ法明門、無明(ムミョウ)の黒暗、及び諸見に著することを断じて、愚癡(グチ)の諸衆生を教化するが故に。

92)智度(六度の六。智慧)は法明門である。それは無明(真理に暗いこと)の暗黒にさ迷うことや、多くの悪しき見解に執著することを断って、愚かな衆生を教化するからである。 

方便是れ法明門、衆生所見の威儀(イイギ)に随って、教化を示現(ジゲン)し、一切の諸仏の法を成就するが故に。

93)方便(衆生を導くために設けた仮の方法)は法明門である。それは衆生の姿に随って教化することで、衆生にすべての諸仏の法を成就させるからである。 

四摂法(シショウボウ)是れ法明門、一切衆生を摂受(ショウジュ)し、菩提を得已(エオワ)って、一切衆生に法を施すが故に。

94)四摂法(菩薩が衆生済度のために行う四種の方法)は法明門である。それはすべての衆生を引き入れて菩提(仏の悟り)を得させ、すべての衆生に安楽の法を施すからである。

(四摂法とは、
一、布施。法や財を衆生に施すこと。
二、愛語。親愛の言葉を語ること。
三、利行。衆生を利益する行い。
四、同事。衆生と親しく事を同じくする行い。)
 

教化衆生是れ法明門、自ら楽を受けず、疲倦(ヒケン)せざるが故に。

95)衆生を教化することは法明門である。それは自ら楽を受けることなくして、倦み疲れることがないからである。
 摂受正法(ショウジュショウボウ)是れ法明門、一切衆生の諸煩悩を断ずるが故に。

96)衆生を正法に引き入れることは法明門である。それはすべての衆生の煩悩を断つからである。

福聚(フクジュ)是れ法明門、一切の諸衆生を利益(リヤク)するが故に。

97)善根を積み重ねることは法明門である。それはすべての衆生を利益するからである。 

修禅定(シュゼンジョウ)是れ法明門、十力(ジュウリキ)を満足するが故に。

98)禅定(坐禅)を修めることは法明門である。それは十力(仏が具える十種の力)をすべて満たすからである。

(仏の十力とは、
一、是非善悪を弁別する力。
二、善悪業とその果報について知る力。
三、様々な禅定について知る力。
四、衆生の能力の利鈍を知る力。
五、衆生の意向願いを知る力。
六、衆生の各々の性質や心の世界を知る力。
七、善悪業によって赴く世界を知る力。
八、衆生の過去世について知る力。
九、衆生の未来世について知る力。
十、煩悩を滅ぼし尽くすことを知る力。)
 

寂定(ジャクジョウ)是れ法明門、如来の三昧を成就して具足するが故に。 

99)寂定(心の静寂)は法明門である。それは如来の三昧(精神を統一する禅定)を成就して身に具えるからである。 

慧見(エケン)是れ法明門、智慧を成就して満足するが故に。 

100)慧見(智慧の眼)は法明門である。それは悟りの智慧を成就して満足するからである。 

入無礙弁(ニュウムゲベン)是れ法明門、法眼(ホウゲン)を得て成就するが故に。

101)融通無碍な弁舌は法明門である。それは衆生に法眼(真実を見る智慧の眼)を得させ、仏道を成就させるからである。

入一切行(ニュウイッサイギョウ)是れ法明門、仏眼(ブツゲン)を得て成就するが故に。

102)すべての菩薩行は法明門(聖者の道に入る門)である。それは仏の智慧の眼を獲得し、成就するからである。 

成就陀羅尼是れ法明門、一切の諸仏の法を聞いて、能く受持するが故に。

103)陀羅尼(善を守り悪を退ける法)を成就することは法明門である。それはすべての諸仏の法を聞いて、良く保つからである。 

得無礙弁是れ法明門、一切の衆生をして皆 歓喜(カンギ)せしむるが故に。

104)融通無碍な弁舌を得ることは法明門である。それはすべての衆生を皆歓喜させるからである。 

順忍是れ法明門、一切の諸仏の法に順(シシタガ)ふが故に。

105)すべてのものは生ずること無く滅することも無い、という道理に従うことは法明門である。それはすべての諸仏の法に従うことだからである。 

得無生法忍(トクムショウホウニン)是れ法明門、受記を得るが故に。

106)すべてのものは生ずること無く滅することも無い、という道理を悟ることは法明門である。それは仏の受記(将来成仏するという予言)を得るからである。 

不退転地是れ法明門、往昔(オオウジャク)の諸仏の法を具足するが故に。

107)退くことのない悟りを得ることは法明門である。それは昔の諸仏の法が具わるからである。 

従一地至一地智(ジュウイチジシイチジチ)是れ法明門、灌頂(カンジョウ)して一切智を成就するが故に。

108)菩薩修行の段階的境地を一つ一つ登る智慧は法明門である。それはついに灌頂(菩薩修行の階位を満たした印として頭頂に水を注ぐこと。)を受けて仏の完全な智慧を成就するからである。 

灌頂地是れ法明門、生れて出家する従り、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得成(トクジョウ)するが故に。

109)灌頂地(灌頂を受けることが出来る菩薩の最高位)は法明門である。それは生まれて出家してから、遂には仏の無上の悟りを成就するからである。

 爾(ソ)の時に護明菩薩、是の語を説き已(オワ)って、一切の諸天衆に告げて言(ノタマハ)く、
「諸天当に知るべし、此れは是れ一百八法明門、諸天に留与(リュウヨ)す。汝等(ナンダチ)受持し、心に常に憶念して、忘失(モウシツ)せしむること勿れ。」
 その時に護明菩薩は、この教えを説き終わると、すべての天人衆に告げた。
「諸天よ知りなさい、これが一百八法明門である。この教えを諸天に留めて授ける。お前たちはこの教えを保ち、心に常に念じて、決して忘れてはならない。」と。


 これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繫(ショケ)の菩薩、都史多天(トシタテン)より閻浮提(エンブダイ)に下生(ゲショウ)せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆(シュ)のために敷揚(シヨウ)して諸天を化(ケ)するは、諸仏の常法(ジョウホウ)なり。
 護明菩薩とは、釈迦牟尼仏、一生補処として、第四天にましますときの名なり。李附馬(リフバ)、天聖広燈録を撰するに、この一百八法明門の名字(ミョウジ)をのせたり。参学のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稲麻竹葦(トウマチクイ)のごとし。
 いま初心晩学のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天(ニンデン)の師となれらんともがら、審細参学すべし。この都史多天トシタテン)に一生所繋として住せざれば、さらに諸仏にあらざるなり。行者(ギョウジャ)みだりに我慢することなかれ。一生所繋の菩薩は中有(チュウウ)なし。


正法眼蔵 一百八法明門 

 これが一百八法明門です。すべての一生所繋(次には仏となる菩薩が一生を過ごす場所)の菩薩が、都史多天(兜率天)から閻浮提(人間界)に下って生まれようとする時には、必ずこの一百八法明門を都史多天の天衆のために説いて、諸天を教化することが、諸仏のしきたりなのです。
 護明菩薩とは、釈迦牟尼仏が、一生補処(次の生には仏となる菩薩)として、第四天(兜率天)におられた時の名前です。李附馬は天聖広燈録(禅の法燈を明らかにした書)を著した時に、この一百八法明門を載せました。参禅学道の仲間で、この教えを明らかに知っている者は少なく、知らない者ばかりです。
 ですから今、仏道を学んでいる初心や晩学の仲間のために、これを書いたのです。説法の座に上って人間界天上界の師となろうとする者たちは、これを詳しく学びなさい。この都史多天に一生所繋として住むことがなければ、それは決して諸仏ではありません。ですから、修行者はみだりに自ら慢心してはいけません。一生所繋の菩薩には中有(死んでから次の生を受けるまでの期間)は無いのです。

正法眼蔵 一百八法明門 

《最後の一節が禅師の言葉であろうかと思われます。「一百八法明門」と言いますが、どういうわけか、一〇九の項目が挙げられています。五十八番目から、五根・五力・七正道・六度と括られた項目が三十一あって、それ以外にも括られそうなところがありますが、どういう基準で、またどういう順序で挙げられているのか、よく分かりません。

 

さて、終わりになりました。

 手元の『全訳注』本は九十五巻本ですから、ようやく五分の一ほどを読んだに過ぎませんが、『大般若経』にも転読という読み方がありますから、これで一応終わりにしたいと思います。というか、ここまで読めたのは、ひとえにサイト道元禅師 正法眼蔵 現代語訳の試み』があったればこそで、それがない以上、終わらざるを得ません。

同サイトを投稿された、故・吉川宗玄 宗福二世中興雲龍宗玄大和尚に感謝し、転載をお許し頂いたご家族の方に篤くお礼を申し上げます。

実は、このあと、禅師の時間論と言われる「有時」巻だけは、『全訳注』を頼りに自分で読んでみようかとも思って、ちょっとやりかけてみたのですが、同書が「正法眼蔵」の中でも難解の最たるものと言っているとおり、私にはとても手が出せそうにありませんでしたので、やめておきます。ただ、玄侑宗久氏のブログにこの巻に触れた一節があり、それを読んで、わずかに心の慰めにし得たことは幸運でした。

 まことにつたない記録ながら、毎回アクセス頂く方がなくならなかったことが、大変大きな励みになりました。ありがとうございました。

 

 また、来年の一月四日から、別の古典を読んでみたいと思って、少しずつ準備をしています。お気が向きましたら、また覗いてみて下さい。

 ではそれまで、失礼致します。ちょっと早すぎますが、よいお年をお迎え下さい(そういえば、郵便局にはすでに年賀状の印刷予約受付のポスターがありました)。》

 

一百八法明門おわり


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